「ミネルヴァのフクロウは黄昏になって飛び出す」-というドイツの哲学者ヘーゲルの有名な言葉に、自分を重ねてみると、私は「黄昏のフクロウ」そのものではないかと感じることがある。次第に闇が深くなればなるほど、フクロウの目は四辺に零れている宝物を目ざとく見つけて飛びかかる。暗闇が深まるごとに、良質の宝物が目に付く習性は人間も同じであろう。若いときは遮二無二“瓦落多”を寄せ集めるもの、いかにも良質の宝物を見つけたと欣喜雀躍しても、それは後からになって砂上の楼閣であったことを思い知らされる。人間は経験を積み重ねるうちに物の価値判断が研ぎ澄まされるようになる。闇夜のフクロウの目と同じように地中深く埋もれていた獲物を見つける才覚が経験と共に闊達になる。
かつて団塊の世代が幅を利かしていたころ、産学共同反対の狼煙を上げて、彼らは全共闘となって大学に反抗した。この集団は後に赤軍派という世界的なテロリストたちの集団に変容してゆくのだが、その頃の若者たちにどんな不平不満があったのか定かではない。だが、全共闘運動のテーゼは大学と産業がリエゾンすることを極度に嫌ったことにある。自由な発想のもとに己の心情を吐露することが無条件に許されたていた平和な時代の事である。それに比較して現代は悲惨である。
人は大きな夢を見てそれを現実に成就したいと切望する。そこまでは良い。しかし現実は夢見る人たちに真実と虚偽の区別が出来なくなるほど盲目的に画策するように要求する。産学共同でなければ目的を遂行することが出来ない社会構造が出来あがってしまったからなのだ。特に実証科学の分野に多い論文偽造事件は当たり前のように行われている。
かつては指導する教授に論文指導の自由な時間があった。しかし、今は、実験をするための資金獲得に奔走するための時間が嵩んで、道義的な論文作成や実験のための方法をゆっくり納得がゆくまで教えることが出来なくなった。大学は真実を極める場所であらねばならない。産業は利益を上げるための商業ベースを死守しなければならない。この二つの相容れない思想哲学を共同で行うためにいずれも大きな過ちを犯す。
最近ではSTAP論文捏造事件から端を発して一人の優れた科学者が自ら命を絶つという悲劇にまで発展した。彼の夢は遥かに六甲の稜線が眺望できる神戸市の街中に先端医療産業特別区域、いわばアメリカ流シリコン・バレーを作ることであり、すでにその着想はベンチャー企業の誘致も進んでいるほどに現実味を帯びていた。世界中の優れた科学者が再生医療の研究を目指して訪れるだろう、そんな特別区域を神戸に造成したいという願望が実って大半の企画運営は完成していた。しかし、京都大学でノーベル賞に輝いたIPS細胞の外に、もっと卓抜した再生医療技術の新規な発想が望まれた。彼が研究指導をしたわけではないSTAP細胞を真に受け、基本的には仮説にすぎないと知りながら、何故、素人の若い研究生に肩入れしたのか、その事情も想像がつく。女性を起用することが今日の日本の経済発展に寄与するという宣伝のもとに政権が女性起用をうたい文句にしていた折もおり、最も日の当たらない理科系女性研究者(リケジョ)に彗星のごとく現れた無名のしかも実績のない若い女性研究者を雇用した研究機関は、早速彼女を「希望の星」の如く扱った。リケジョの大半があり得ないと思える行動を平然と無邪気にさえ見える振る舞いで行っているのを傍観していたような状態であった。
フクロウの目にはそれがシリコン・バレーを代表するような宝物には見えなかった。闇が深くなればなるほど、その欺瞞が暴かれ、フクロウの目にはその虚偽の形骸がどこから生まれるのかを察知しえるエルキュール・ポアロの目になった。
これは結局のところ、産学協同の負の部分が強調された事例である。多額の研究資金を生みだす為の錬金術的方策でいかにもありそうに見えた若い女性研究者の妄動に踊らされ、ついに「経済事犯」の犯罪者の片棒を担ぐ羽目になった一人の優れた研究者の悲劇は世界中の眼を日本人研究者への同情を集めた。
かつて科学は金持ちの道楽に過ぎなかった。学問研究も同様である。しかし科学が産業界とリエゾンし、多額の資金がそこに溢れだすとすれば、人間の欲望は膨大に膨れ上がる。だが、長い間砂にうずまったまま陽の目を見ることの出来ない美しい桜貝を見つけるために魔法の杖を砂に突き刺しながらデータマイニングする、そんな光景が目に浮かぶ。
さて、黄昏のフクロウはこの美しい桜貝を掘り当てることができるだろうか。
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