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丸山久美子
丸山久美子フクロウ相談
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丸山久美子 Kumiko Maruyama Column
 
 
 
 
 

「統計学者林知己夫の生涯」と「データの科学」
2015.10.03

 

  一人の人間が、かつて存在した日々をつぶさに紬だし、その一生を書き綴るというのは、客観的な記録を綿密に正確に記録する困難さよりも、書き手が描かれる対象と一体になることの難しさである。そのために勘所をつかむセンスを随時持ち合わせておくことが必要であり、それは至難の業であった。筋を通しておくだけで精一杯である。
  林知己夫という様々の分野にわたって膨大な研究をなし得た統計学者は、社会学、社会心理学、教育学、医学、森林学、動物生態学、市場調査、放送ジャーナリズムなどデータの存在するところへはどこへでも出かけて状況把握を綿密に行う研究スタイルの、その行為自体が極めて困難であるからだ。並の人間のなしえることではないであろう。

 何か事件が起これば、どんなケースでも拒まずその場に出かけ、虫眼鏡で周辺を探索して事件を解決する優れた観察力と感性の鋭さを持った類まれな人間になることは不可能であり、シャーロック・ホームズの解決した事件もそれを詳細に記録したワトソンによって明確になったものである。しかも、ワトソンは随時ホームズと行動を共にしている。
  イギリスの伝記作家として名高いジェイムス・ボズエルは「サムエル・ジョンソン伝」を記録するために、ジョンソンと行動を共にして細部にわたって記録している。
  このように恵まれた環境条件の中で当該人物の伝記を記録することが本来の伝記文学であるとすれば、「林知己夫の伝記」を書くことは不可能であり、私の書いた林知己夫像は彼の全体像の一部であるにすぎない。その意味において、全体像を描き得る作家はどこにもいない。「群盲、象を撫でる」の類である。一部を見て全体を推測する。推測であるからには筆者の独断と偏見が多く作用する。他の研究者が林知己夫伝を書くとすれば、それは又別の林知己夫の出現である。この論法でいえば林知己夫は無数に存在するであろう。
私はそれでもよいと思っている。林知己夫と現実に接触し、特訓を受けた弟子たちは年老いて、記憶もままならない。だから今のうちにかって存在し,どこへでも出かけてデータの科学を探求した研究者の存在を知ってもらうために、誰かが書かなければならないのだ。

  今や社会は、「データサイエンス」、「ビッグデータ」がブームのようになっている。多くの統計学者たちはこの潮流に乗るために様々な工夫を凝らしている。新たな時代にふさわしいデータサイエンスを模索する多くの研究者たちは、これまで、そろばん、電卓、数表などを駆使してデータを分析していた時代からすれば、スーパーコンピュータの活躍のおかげで、比較にならないほどスピーディにデータが処理されており、林知己夫の時代をはるかに超えて物事が単純化されたのではないかと考えているのではないだろうか。然し、私はそのようには思わない。何かを始めようとするときに必ず通らなければならない基礎的思考体系を身に着けていない研究者は、いかに手元に数々の優れた道具が整備されても、結果において、危うく怪しい、似て非なる代物を本物と間違える結果が多々あるからである。
  私が先刻来問題にしているスタップ細胞事件と同じ過ちを繰り返す。この種の問題は深刻である。研究者の基礎能力や基礎知識の欠如がなおざりにされ、新しい物好きな人間が群衆となってそれに飛びつく結果を招来する。文部科学省の教育方針からしても即物的操作的活動を教育の基本に据えるという愚かな知恵で物事を解決するようなものである。なぜそうなるのかという哲学や、思想するとは何かを学ぶ機会を失わせるような教育方針が打ち立てられる。人間は考える葦であるとパスカルはいう。だからいかなる嵐が来ても決して折れたりはしない。

  林知己夫はデータの科学を目指し人生をまっとうした。だが、彼の研究はすべて解決したわけではない。いかにして、その社会でデータを扱うのが妥当なのかを考える若手研究者を必要とする。データというものが人口に膾炙された時以来、今日に至るまで、データはいかに扱われていたか、データを考えるときの基本姿勢を明確にする理論が必要となる。その理論とは何かを考える余裕がないとすれば、科学理論の世界の危うさが露呈され、いつか途方もない仕方で、データは宇宙のかなたを飛び回るに違いない。まさにSFの世界ではないか。
  「データとは何か」をますます究めなければならない。科学思想や科学哲学の知恵を借りて「データとは何か」を考える時期が早晩訪れるであろう。
データ解析を綿密に行うのではなく、データとは何かをじっくりと考える柔軟な頭脳明晰の持ち主が現れてこそ、この問題は解決するのではないかと、私は思っている。
                    


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  (2015年10月03日) 丸山久美子
   
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